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2日後 [家族]

35周年が無事終了してから2日後、
義母は自宅で息を引き取った。享年79歳。
胃がんを患い、1年9ヶ月の闘病生活を送った。
って書いただけで、涙が出て来る(^^;;;;
落ち着いてると思ってるだけで、まだ、ダメだね。

私だけの思いだが、
親爺の時に30周年が行われ、中途半端な手伝いしか出来ず、
この35周年でも、迷惑掛けてしまうかなと思っていたのだが、
パーティー前日、お袋は、私も頑張るから、頑張って来いと言ってくれた。
ホント、お袋のお陰で、迷惑を掛ける事無くお手伝いが出来た。

実家を継いでくれた義妹が
「お金掛ける事しなくて良いからねと、お母さんに言われたけれど
人をもてなす事を大事にしてたから、お母さん最後のお持てなしだから
精一杯の事して上げたい」とみんなの前で話した時、兄弟全員賛成だった。
こんなお袋だったので、人をもてなす手伝いは、しっかりやれと
言ってくれたのだと思っています。
パーティー終了後、実家へ着いた時は、寝ているお袋の耳元で、
無事お手伝いが出来た事を伝えた。
親爺の月命日が16日なので、それまで持ってくれるかと話していたが
14日の朝、天国に逝った。

自宅療養をする事に決めた時、訪問医の先生や看護師さんが来てくれ、
色々と説明をしてくれたらしいのだが、
その時、自宅で最後を迎える人達の事が載っている冊子を置いていった。
母ちゃんは、それを何度も読んだ。
1ヶ月前、1週間前、3日前、1日前、6時間前、
冊子には、最後を迎える状況が時系列で事細かく書かれてあり、
お袋の状況は、書かれている内容と酷似していたらしい。
亡くなる前日、母ちゃんは義妹と2人でお袋を見て、
これで最後なんだなと感じたらしい。

その時、母ちゃんは最後の最後は、義妹と2人きりにして上げたいと思い、
妹には、その事を告げず帰宅した。
ずっと、お袋の面倒を見て来てくれた妹と2人きりにして上げたいと覚悟を決めた。
「落ち着いてるからね、大丈夫だよ」と義妹も言ってくれたらしい。

帰宅した数時間後のAM2:30電話が来た。
「ゴメンね、お姉ちゃん。大丈夫だと思ったんだけど・・・」義妹の電話で
再び実家へ5人で向かった。
カナダへ留学中だった次女も、先週帰国させていた。
「バアバが危ないから帰れるか?」連絡したその日の飛行機に乗せ、
そのまま実家へ行き、まだ意識の有ったお袋に会う事が出来た。
「夏帆ちゃんと会えるのこれが最後かもね」と留学する時にお袋が
冗談で次女に話していたのでね、それだけは絶対にさせないと思っていた。
次女も、そのまま泊まり込みで看病する事が出来た。
最後は、とても穏やかで静かな旅立ちだった。

「お母さんってね、いつまでも、そばにいると思っちゃうもんね。
大変だけど、元気出してね」
土曜日、総監督のご自宅へご挨拶に伺った時、
まり子さんが、母ちゃんに掛けてくれた言葉。涙が出て来た。
居なくなるって想像が出来ない。
ついこの間、退院してきた時、一緒にご飯食べた。
母のそばで、娘に軽口を叩いて居た時、「そんな事言わない」と窘められ、
「ほ~~ら、バアバに叱られた」と娘に突っ込まれ、みんなで笑ってた。
ついこの間の出来事。
初孫である甥っ子が、最後に花を手向ける時に、ウジウジしてた。
「最後は、しっかり見送るぞ」と首根っこを摑まえ、お棺の前まで連れて行った。
お袋の頭を撫でながら、甥っ子と一緒に花を手向けた。

告別式が終わり、田舎から出て来てくれた、親戚の伯父伯母達を見送り、
実家へ戻り、祭壇を作って線香を手向けた。
葬儀の日程が決まる前、母ちゃんを実家へ残し、
子供達と喪服の準備やらで帰宅する時、
母ちゃんが、カンちゃんの所で散髪して貰って来いと言うので、
そのまま、散髪して貰いに行くと、
マスターと、おばさんから「これ、お母さんに」と大きな生花を頂戴した。
その生花を、祭壇に飾らして貰った。

セレモニーセンターで、立派な祭壇の中に、
ビーバーズと総監督ご夫妻の名で、生花が飾られていた。
白田さんから、大きな白菊の添えられた弔電も頂いた。
通夜の義が終わり、席を立ち振りかえると、ヤスさんの姿が目に入った。
「こんな遠くまですみません」と母ちゃんとエリとお礼を述べた。
ヤスさんは、エリに袋を手渡すと、そのまま帰られた。
袋の中身を見ると、クッキーと手紙が添えられていた。
何かと忙しいから、何も食べられないといけないので
合間を見て食べて下さい。35周年が無事終えたのも
お母様の頑張りのお陰です。ありがとうございましたと書いてあった。

何から何まで、皆さんからお気遣いを頂戴致しました。
本当に、ありがとうございました。


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